●セクション2
「アッちゃん、ちょ、ちょっと、いい?」
真夏の朝一番、課長はそわそわしながら私の席まで来て、蚊の鳴くような声を出した。
施設管理部の植栽課から総務部の人事課へ異動してきた課長は、くたびれてしまったカバさんのようにどってり席に座っていることが多かった。おそらく、毎晩のお酒の付き合いで体力を消耗し、日中は休養にあてていたのだと思う。
とはいえ、課長は本社へ外出したり、各部門の現場オフィスへ出掛けたりと、ちょくちょく出入りしている。ルーティン作業に追われ、まだ一度も同行したことがない私には見えない所で、実は重大な任務を果たしているとか・・・。いや、あまり期待できそうもない。
しかしその分、仕事は完全に任せてくれた。私もカフェチェーン事業部から異動してきて日が浅いが、厚生業務については七年以上の経験を持つ。
もっとも、正社員の厚生業務は、本社の人事部が全事業部のぶんをまとめて行なっていた。そのため、私の仕事は、臨時従業員とパートタイマーの厚生関係の事務が主となった。乗り物、商品販売、飲食施設、清掃など業務運営の最前線に配置される人は、ほとんどがパートタイマー。雇用契約を結ぶ人数は千の単位となるため、私の仕事量は大きかった。が、難易度は高くなかった。
「えーと、あのう、実はね。きのう、現場で事故があったんだ。アッちゃんに隠しておいて済まなかったけど・・・」
ドアをしっかり閉めた小会議室で課長は話し始めた。
昨晩も深酒をしたのだろう。頭はまだ回転していないようだった。それにもかかわらず焦っていて、しどろもどろとなった。私は、自分で要点を整理しながら聞いた。
バトルジェットで労働災害が発生。被災者は、今年の春から働いているA子さん。専門学校に通うパートタイマーだ。車庫内で、コースターの車輪に両足を巻き込まれた。
病院に駆けつけた両親、特に父親は激怒した。事故の経緯を説明しろと課長に迫った。さもないとマスコミへ駆け込んでも真実を追究するという。
それに、会社としても労働基準監督署へ、事故の詳細を来週一番に報告する必要がある。今日は金曜日だから、三日の猶予だ。間に合わなければ、営業停止処分を受けるかもしれない。しかし、課長は現場のマネージャーから「原因は被災者本人の不注意」と報告を受けただけである。労基署がこれで納得するわけがない。
パートタイマーであっても面接と採用は本社の人事部が全社一括で行なう。教育と日々の勤怠管理は現場が行う。そのため当人の名前をコンピュータ上で見掛けたことがあっても人物は知らない。正直、気の毒という気持ちは沸かなかった。だが、日々の事務仕事から目先が変わり、むしろその面で関心が沸いてきた。
「誰か、事故を目撃していないのですか?」
「そ、そうらしい。事故の瞬間、車庫内にはA子さんしか居なかったそうだ。だから、本人に訊かないと理由がつかめないんだよ。そこで、悪いんだけど、アッちゃん。病院で会ってきて欲しいんだ」
くたびれてしまったカバさんという私の評価が妥当だとしても、課長は決して悪い人間ではなかった。むしろ優しい部類である。父親の強行な態度にたじろぎもしただろうが、女性の被災者にインタビューするのなら、同じ女性である私のほうがいいと配慮したのだろう。
私は引き受けた。
いや、訂正する。会社から厚生業務を委任されている課長に言われた以上、「引き受けた」のではなく「社命を受けた」のだ。いわゆるミッションである。とはいえ、私がやる気になったのは、長年続いた事務仕事から解放されるという、利己的な動機以外の何物でもなかった。


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