「能力は、追いつめられてこそ開発される。
少なくとも凡人においては・・・」
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序
一九八〇年代の末。つまり、携帯電話やインターネット、そして英会話スクールが、今ほどには広まっていなかった頃のお話である。
が、どんな時代であろうと、関わる人がトンチンカンな限り、混乱あるのみ。ビジネス、特に国際ビジネスでは、なおさらである。
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上司のいびりが追い打ちを掛けたとはいえ、無謀であった。会社を辞める理由として、出し抜けに自営業を宣言してみただけのこと。あては無い。資本金のつもりだった数十万円の退職金は、消費者金融の清算でほとんどなくなった。残金でスピード印刷の名刺を作ってはみたものの、二、三の知人に当たってみただけで安っぽさに嫌気がさし、営業意欲は消え失せた。
こんな次第でぶらぶらしている中、僕は高校の同級生の結婚式に出た。
今でこそ慣れたが、当時はあの黒い服を好きになれないでいた。葬式はともあれ、結婚式で着るのには抵抗があったのである。塩をふりかけてもクリーニングをしても死臭が抜けない気がし、晴れ晴れとした気分になれなかったからだ。
(礼服という理由で兼用できる人は、合理的でいいなあ・・・)と羨んだものである。
とはいえ、芸能人のように色々な服を持っているわけじゃない。安くてセンスのいい貸衣装屋も知らない。やむをえず、ビジネス用として持っていた紺のスーツ、サラリーマンが着る典型的なやつを着てホテルへ行くことにした。
(紺だって礼服だぞ!)
一応は自己暗示をかけておいたが、しょせん悪あがき。一人だけ浮いた格好になるのは間違いなかった。
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同級生は、なぜか披露宴のみならず挙式から招いてくれた。
しかし、それが洋式にしても和式にしても、はたまた和洋折衷にしても、こうしたセレモニーは苦手だった。神妙が過ぎて笑い出してしまうのだ。そこで、わざと遅く出立した。しかし、僕は本来、遅刻心配症である。計画的に遅れるなどもっての他だ。
「遅れても行かぬよりまし」
せめてこの程度の言い訳が効く範囲で時間をずらし、ホテルへ向かった。
着いてみると、ロビーに案内板があった。式場は五階の室内チャペルとのこと。キリスト教式だったのだ・・・。といっても、同級生は信者ではない。泊まりがけで遊びに行っては悩みを打ち明けあった仲である。この点は神様より僕のほうがずっと詳しかった。
超高層でないぶん、平面積が広いホテルだった。チャペルがある階までエレベーターで昇り、人気のない静かな廊下に出た。建物が緩やかながらも大きなS字曲線を描く構造になっていたせいで、行く先は見えなかった。わざと遅れた罪意識もあってか、随分と長い時間、歩いた気がした。
突然、信じられない光景が現れた。高校時代に片思いをした祥子ちゃんが僕に向かって微笑んでいる!
が、よく考えてみれば同級生の結婚式に来たのである。そして、さらによく考えてみれば、同級生の妹と祥子ちゃんは親しくしていた。挙式に呼ばれていても不思議じゃない。落ち着いて周囲を見回せば、彼女の他にも高校時代の顔ぶれが揃っている。狭いチャペルの座席が主賓と親族だけで埋まってしまい、友人一同はセレモニー開始まで廊下で待つ格好となっていたのである。
予期せぬ再会で僕はすっかりアガってしまった。祥子ちゃんのみならず顔見知り全員と挨拶を交わしたものの、何を言ったのやら聞いたのやら。ただ、祥子ちゃんが僕を頭のてっぺんからつま先までゆっくりと眺め、「田中さん、お変りありませんネ!」と微笑んだことだけは認識できた。
(「お変わりありませんネ」ということは・・・)
高校時代、彼女は僕を観察していたということだ。そして、その観察結果を、現在と比較できるほど記憶しているということだ。
(片思いは、ひょっとして自分の勘違いだったのかも?)僕はくらっとした。
その直後、チャペルの中へ入るよう係員が指示をした。遅れていた式がようやく始まったのである。フラつきながらも、僕は彼女の後を追った。そのため、彼女の真後ろに立つことになった。
(大きいホテルなのになぜチャペルがこんなに狭いのだろう?)
しばし疑問が沸いたが、すぐ止めた。その狭さゆえ、彼女に一目惚れしてから十余年、初めて彼女を眼前にできたからである。
彼女は背中がVの字に割れたドレスを着ていた。高校の時はリンスのたっぷり効いた長い髪の少女だったが、今はリンスも効いておらず短くカットされていた。しかし、そのお陰で、彼女の背中を存分に見ることができた。
肌は荒れてはいないが、つるつるというわけでもない。うぶ毛は、濃くもないが薄くもない。屋外のスポーツが好きだったはずなのに、なぜか日焼けしてない。所々に染みやそばかす、ちっちゃなイボも三つ四つある・・・。要するに、背中の肌にスポットライトを当てただけで魅力が飛び出す彼女ではないのだ。
とはいえ、高校時代、何も僕は彼女の背中に恋していたのではない。遠くからひっそり見つめて溜め息を吐くしかなく、そんな恐れ多いことは知る由もなかった。あくまで、彼女の軽やかな身のこなしと爽やかな笑顔、つまりハードウエアではなくソフトウエアに恋をしていたのである。
だから、背中に関する部分的発見なんて、大したことじゃない。なによりも、憧れの女性のすぐ後ろに立てたという事実。パッとしなかった人生、この輝ける事実こそが重大であった。
今にして思えば、これが遠いキッカケとなり、人生は大きく変わっていった。運命の神様、いや、動機づけの神様と呼ぶほうが適切だ。もしもそうした存在があるのなら、まさにこの時から、僕はその手に委ねられたのである。
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式が終わった後も、彼女を追いかけて行った。披露宴の受付でも、ぴったり後ろに立った。そして、彼女が来賓名簿に筆ペンで記入するのを、肩越しに覗き込んだ。
すると、彼女の姓は変わっていた。「川上祥子」が「西村祥子」に変わっていたのである。ということは・・・、
つ、ま、り、彼女は結婚したということだ!
が、しかし、高校時代が去り十年以上。僕も彼女も一、二年のうちに三十歳を超える。結婚していたって不思議じゃない。それに、僕は彼女の何様でもない。彼女をどうこう言う権利など全く持ち合わせていない。断りもせず勝手に片思いをしていただけだ。もっとも、相手の承諾を得た後に片思いを開始する者などいないとは思うが・・・。
現実的になった僕は、名前を書き終えた彼女に声を掛けた。
「ご結婚したんですか?」
「はい」と彼女は答えた。「この前子供を産んだばかりなんですよ」と続けた。
このまま黙って終わりじゃヘンな気がした。
「そしたら、体力落ちましたか?」
気が利いた話題とはいえないが、彼女はスポーツが好きだったので言ってみた。
「ええ。だから運動しなくっちゃ」と、ランニングのジェスチャーをしながらニコやかに答えた。
会話は以上だった。でも、僕にはこれだけでも充分なほどであった。課外活動の際に集団の中で意見を交わした場面はあったが、一対一で会話をする機会は持てなかったからである。
彼女は受付からゆっくりと離れて行った。続けて僕も記帳した。なんて下手くそな字だと自己嫌悪しながらも、彼女の綺麗な字の隣りに名前が書けたことで嬉しい気持ちになった。相合い傘の心境である。
(そうか・・・。彼女の髪が短かったのも、リンスが行き届いていなかったのも。スポーツが好きなのに日焼けしていなかったのも。出産したばかりだったからなのか・・・)
溜め息をつきながら僕は静かに筆をおいた。そして、待ち合い室で披露宴が始まるのを待った。
新郎側招待者専用の部屋なのに、チャペルとは打って変わってやたらと広く、そこで披露宴をやっても良いぐらいだったが、なぜか祥子ちゃんの姿はなかった。
(おトイレかな?)
よく見てみると新郎の妹もいない。
(二人で花嫁さんの姿でも見に行っているのかな? それとも、女性専用の控え室でもあるのかな?・・・)などなど、アレコレ考えているうちに落ち着いてきた僕は、彼女を捜してホテルの中を飛び回るような真似をしないで済んだ。
宴会場へ移っても慌てることはなかった。受付で渡された席順表を見て祥子ちゃんと同じテーブルじゃないことを了解済みで、気持ちの整理がついていたからである。が、座る位置の関係で、別テーブルの彼女と僕は目が幾度も合うことになった。僕らは目が合う度に笑みを交わした。
(めでたい席だもの。たとえぶん殴りあった相手とだって笑みぐらい交わすさ・・・)
披露宴はお開きとなった。
(これで全て終り。後は一生会うことはなかろう)
淋しくもそう思った。だが、こんなささやかな出来事であっても、何もなく終わるのに比べたら計りしれない価値があった。同級生には悪いのだが、結局のところ、結婚式にではなく片思いの人との再会に大感激。お祝い金に奮発し素寒貧となってしまった関係で、ホテルのレストランを借り切って行なわれた二次会には参加できず、独り、アパートへ帰った。
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