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翌朝、ひどい頭痛に起された僕は、一番で新聞の求人欄に目を通した。すると、隅っこに小さく「企画書等ライター募集/年齢不問/出来高制/完全企画社」という記事を見つけた。
朝夕新聞を見ながら、なぜこうした仕事を発見できなかったのだろう。「新聞の求人欄に出ているのは正社員募集ばかり」との思い込みが過ぎていたのかもしれない。いずれにしても、この仕事なら自営業開始を宣言した体裁も保てる。「自分でも務まるだろうか?」とも思ったが、焦る気持ちのほうが強い。さっそく電話をして面接日を決めた。
完全企画社は、四ツ谷駅から少し新宿側に寄った四階建てビルの二階にあった。今にも倒壊しそうなボロボロのビルだった。
会社は一室だけだった。窓ぎわに社長の机があった。部屋の中央に事務机が四つ並べてあったが、社長の他に居たのは年配の女性社員一人だけ。遠慮ぎみの笑顔と小さな声で「いらっしゃいませ」と迎えてくれた。
社長の机を挟んで折り畳みイスが一つ置いてあった。僕はそこに座り、面接をした。
社長の名は「藻鷹」といい、人当たりがとてもソフトな人だった。「社長」と聞くとついガミガミ親父を連想してしまう僕は、ホッとした。
「企画書を書いた経験は?」
「ええ・・・。ただ、専門というわけじゃなくて・・・」
「というと、何か別の専門があるんですか?」
「ええ、職務分掌マニュアルです」
「ほう、職務分掌マニュアル。それはかえってありがたいですね。イベントの企画では、実施が決定した場合、職務分掌マニュアルが必要となるのでね。が、まずは一件、試しにやってみて下さい。出来上がりが良ければお支払いします」
(どおりで、すんなり面接日が決まったわけだ。やらせるだけやらせて、気に入らなければ1円も払わないのだから・・・)
いじけた毎日が続いていた僕は、すっかり悪いほうに解釈した。
が、そうした心の内に藻鷹さんは気づいていないようで、さらに詳しく説明してくれた。
「うちの取引先の多くが、広告代理店でしてね。その中でも、金星広告社の仕事が一番多いんですよ。まあ、正確には、同社が百パーセント出資して作った子会社の『金星催事社』の仕事なんですけれど。金星広告グループは、田中さんもご存じですよね」
「はい」
会社の実態は知らないが社名は知っていたので、それでよしとした。
「この会社の仕事が多いのも、私、以前そこの社員でして、何人かプロデューサーを知っているからなんです。で、とりあえず、田中さんには、私の直属上司だった尾倉浜さんというプロデューサーから来た案件をお願いしようと思います」
「どのようにして進めればいいのですか?」
「難しいことはありません。尾倉浜さんが主催する企画会議に出席して、そこの情報から企画書を起こして頂ければ結構です」
「自分自身で企画を創り出す必要はないのですか?」
「ええ。プロデューサーが具体的に決め込んでいくので、その通り企画書の体裁にまとめるだけです」
「どんな体裁ですか?」
「そうですねえ・・・。何かサンプルをお貸ししましょう」
社長はイスに座ったまま後ろを振り返り、壁に張り付いたキャビネットからごそごそと書類を何点か取り出した。
「ワープロ仕上げでお願いしたいのですが、ワープロは持っていますか? もし持っていなかったら、うちのオフィスを使って頂いて結構です。遠慮しないで下さいね」
僕は乾電池でも動くブックタイプのワープロを持っていたので、自宅で作業すると伝えた。
「そうですか。うちに来て作業するライターも結構いるのでね。まあ、もしその必要が発生したらそこの机を使ってください。では、次の会議の日時が決まりしだい連絡しますので、よろしくお願いします」
藻鷹さんは立ち上がり、階段まで僕を見送ってくれた。
(ライターと言っても、単なる記録係じゃないか・・・)
クリエイティブな仕事を期待していなくもなかっただけに、僕はビルを出ながらボヤいた。しかし、そのぶん、簡単な仕事のようにも思えた。いずれにしても金がない。ある面すんなりと話が進んだから少し気が楽になり、「久しぶり新宿の付近に来たのだから」と理由をつけ、昔行ったことがあるロック喫茶に寄ってやろうとそれを捜した。
僕はハードロックが好きだった。しかし、階下がカラオケ酒場とはいえ木造アパートに大型のスピーカーは置けない。ヘッドフォンを使って大音量を実現していたが、耳ばかりガンガンする。ロック喫茶に行けば、耳だけでなく全身ガンガンする。爽快感がまるで違う。
ところが、その店はなくなっていた。時代はどんどん変わる。会話するのに一々怒鳴る必要がある薄暗いロック喫茶など、きっと考古学の領域なのだろう。
しかたなく、ウインダムヒル風のピアノソロがBGMで流れる小ぎれいな喫茶店に入った。そして、藻鷹さんから借りた書類に目を通した。
それは、家電メーカーのショールーム改装記念イベントの企画書だった。
用紙サイズはB4横。めくってみると、すごく格好の良い見出し。だが、本文の論理には一貫性がなく、カタカナ英語をやたら登場させることでごまかしてある。概念図のつもりだろうか。複雑怪奇なフローチャートが添付されていたが、前衛芸術とも呼べる代物だった。
もう一つ預かってきたA4縦のイベント実施職務分掌マニュアルは、ともかく厚い。どこにでも流通している市販図書から手当たり次第転記することでページを稼いだと疑われてもおかしくないほど、一般論が目についた。が、そのイベント固有と思われる実施手順はなかなか見当たらない。
(せめて体系的に構成されていれば、たとえ一般論であっても勉強にはなるだろうに・・・)
実は、僕は辞めた会社で総務部文書課に所属していた。中途で入社してから退職まで人事異動に遭うことなく、これ一筋であった。
その会社は百パーセント日本資本であったが、米国企業からノウハウ供給を受けて行なう事業にも手を出していた。ノウハウは必ず文書にて伝達される契約だったが、翻訳の壁を乗り越えるためにも、米国から派遣されたインストラクターたちに何でも質問して構わない機会に恵まれた。
中でも一番頻繁に質問を受けてくれたのが、ボブ・ホフマンという名の初老の男だった。
彼は、陸軍士官学校で情報学と行動科学の教官をしていたのだが、民間企業に引き抜かれた。ベトナム戦争の体験者でもあり、額には大きな傷があった。彼からは特に、作業手順書に基づく組織行動に関して指導を受けた。
「不明瞭な情報は命とりだ。野生の牛でもわかるぐらいにクリアにしろ!」
これがボブの口癖だった。指導する相手に対してというより、自分を責めているような感じで厳しく言っていた。何か悔いる思い出を戦場に残したのだろうか? この口癖を耳にする度、僕は想った。
とにかくボブは、文書を何度も読み、徹底的に直しを入れた。根拠不明な点については「なぜ?(why)」、手順不明な点については「どうやって?(how)」と執拗に訊いてきた。僕は辟易した。が、それでも付いて行くことができた。というのも、口調は厳しくとも人格をおとしめるような言い方は一切しなかったからだ。仕事の相手を指導するのではなく、仕事の内容を指導するやり方とも言えよう。だから、ボブが帰国する頃には、僕は彼が大好きになった。彼のほうも、最後まで付いて来た僕を認めてくれた。ところがそのぶん、同じ日本人からは疎まれるようになった。whyとhowを追求する癖がしっかりと身についてしまったからである。
「たいだいお前は子供じみている」
イビり抜かれた上司にも何度も言われた。たしかに子供はwhyやhowを尋ねてくる。が、だからと言って、whyやhowを尋ねる大人を子供じみているとするのは、三段論法の誤用もいいところだ。
向かいのテーブルでは、広い窓からそそぐ光を受けながら学生風の女の子たちがおしゃべりしていた。僕は時おりその姿に視線をやりながら、二時間ほどで書類に目を通し終えた。
(こんな程度でいいのなら・・・)と、奇妙な自信が沸いた。
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