12
ビデオ撮影を終えLAへ北上する時はご機嫌だった。帰りは急いでいないのに、行きと同様、いや、行き以上に飛ばした。要するに、カメラマンの彼は単なるスピード狂だったのだ。だから、グレンと僕はまた貨物スペースで冷凍マグロにならざるをえなかった。
帰りのBGMは、八十年代を代表するロックバンドとも評された「U2」のヒットアルバム「ヨシュア・トゥリー」。カメラマンは繰り返しかけた。僕もこの時期のU2が大好きだった。日本公演の際に最後方のS席を安く手に入れ、連日通ったほどである。
カメラマンはテープに合わせ大声で歌い続けた。
「I still have’t found what I’m lookin’ for」は僕も一緒に歌った。教会でゴスペル隊と共演するドキュメント映像によっても知られた名作だ。
この歌は、キリストの再来を願う民の気持ちを代弁しているもの・・・。僕はそう解釈してきた。が、この時だけは、「what I’m lookin’ for」(捜しているもの)とはキリストのことではなく、理想の女性のこと、つまり僕にとっての祥子ちゃんを指している気持ちになった。
しかし、いくら彼女が幻聴や幻覚で現れるほど心の一部になっているとしても、やはり本物と結ばれたい。だが、それは不可能だ。僕は幻を求めて彷徨い続け、人生の荒野で朽ち果ててしまうのだろうか・・・。
リフレンを繰り返しながら僕は涙ぐんだ。
ワゴン車は四時過ぎ、カメラマンの所属するオフィスに着いた。電話を借り、ビデオ撮影を終えたことをカレンに報告した。そして、ニックと連絡がついたかどうか尋ねた。
「それが全く連絡つかないのよ」
「自宅のほうは?」
「そっちも全然だめ。留守番電話のままよ」
昨日の社長プレゼンにも来ない。撮影の連絡はしていない。事務所にも連絡はない。留守電に対する返事もない。
(失踪事件ということか・・・)
そう判断した僕は、オフィス内からこの仕事に関わる資料をかき集めてくれるよう、カレンへ頼んだ。もっとも、彼女は僕の部下じゃない。ニックの専任秘書でもない。あくまで親会社ロックパルス社の社員で、秘書のふりをしているだけ。彼女は一瞬ためらった。が、引き受けてくれた。
「わかったわ。やっておく。でも、ニックからこの件について詳しく聞いたことないから、役に立てるか分からないけど・・・」
電話を切った僕は、その場で考え込んだ。
(ギリシャの尾倉浜さんに指示を仰ぐのが一番だが・・・。それとも、もう少し待っていれば、ニックがニコニコと現れるだろうか。いや、期待できそうもない)
テーブルに肘をつき頭を抱え込んでいると、グレンがすぐ脇に立っていることに気づいた。何か言いたそうである。
(もしや、ニックを捜すための良いアドバイスがあるのかも?)
僕は座ったまま彼を仰ぎ見て、言葉を待った。
「えー、あのう、今日撮影したビデオテープなんですけれど・・・」
撮れていませんでしたとでも言い出すのかと思った僕は、不安に包まれた。
「実は日本からファックスが入っていて、急いで届けてくれって言うんですよ」
(それなら、僕の脇でもぞもぞしていないで、さっさと送付の手続きをすればいいじゃないか!)
ところが、グレンの説明を聞くと、事態はそう簡単ではなかった。
クライアントの社長が上映予定のビデオを早急に見たいと言い出したらしい。メキシコでのプレゼン予定があの様だったので、あれもこれもと疑念を持ち始めたのだろう。当然である。
ところが、実務的には、まず仮編集をしたものを総務部長へ見せ、OKを取ってから本編集する段取りを踏まなければならず、そのためには至急ビデオテープが必要だ。インターネットのブロードバンド化を終えた現代ならば、いったんサーバーにアップロードし、相手にパスワードを教えFTPダウンロードさせる手順を踏めば、メールの添付ファイル送信が不可能なほど容量の大きい映像情報でも手渡せる。しかし当時はテープを航空便で送るしか手だてはない。
「今からだと、税関のことも入れると、航空便では間に合わないタイミングなんですよ・・・」グレンは終始視線を僕に合わせないようにして説明した。
「それでどうするんですか?」
僕は溜息まじりに対策を尋ねた。
するとグレンは、日本に向かう便へ搭乗する寸前の日本人スチュアーデスを空港で適当につかまえて依頼するという。そして、日本のビデオ製作会社へ彼女の名前と便を国際電話し、成田で受け取らせるという。
「これはいざという時に、よく使う手なのですよ・・・」
「本当ですか?!」
僕は疑念の声をあげた。そのスチュアーデスがグレンの恋人だとか言うならまだしも「適当につかまえ」頼むというのだ。だいたい、彼女にとってみれば、これが本当にビデオなのかどうか分からない。ひょっとしたら中にマリファナやコカインが入っているかもしれない。麻薬捜査犬じゃあるまいし、くんくん臭いを嗅いで引き受けるかどうか判断できるわけでもない。たとえ麻薬でないことが分かっても、ロボコップでもあるまいし、目に埋め込んだスキャンニング装置でポルノ映像か否か点検できるわけでもない。下手すれば爆弾かもしれない。ちょっとしたアルバイト料をもらったところで割が合わない。
(グレンの奴、いい加減なことを言っているな。要は、誰か関係者が直接運ぶことを願っているわけだ。とはいえ、それは僕しかいないわけだが・・・)
いずれにしても異常事態である。完全企画社の藻鷹さんへ報告したい。アシスタントプロデューサーの蚊西君へ伝える義務もある。だが、エコーが掛かることもある国際電話で、顔も見ずに説明するにはあまりにも複雑な事態だ。
僕はカレンにまた電話をし、今見つけた分だけでいいから資料をバイク便で空港へ届けてくれるように頼み、グレンの私用車で空港へ急行した。成田への最終便は、あと一時間ほどで出発してしまう。
幸い空港にはすぐ着いた。カメラマンの所属する会社は近くに位置していたのである。
チケットカウンターへ飛び込んだ。カウンターの女性は少し驚いた様子だったが、すぐコンピューターで調べてくれた。ファーストクラスならば空席があるという。僕は構わずクレジットカードをさし出した。が、四ツ谷の旅行代理店でビジネスクラスを取った時のような優雅な気分にはならなかった。ファーストクラスだろうが機内のトイレのシートだろうが、とにかく席が取れさえすれば何だっていいと思っていたからである。ビデオテープとバイク便で届けられた資料だけを手に、出発寸前の機内へ滑り込んだ。
ところが、いざ席に着いてみると、隣りの席には往年の有名女優、その強烈ながらも魅惑的な香水、シャンペンにキャビア、肉汁したたるローストビーフ。搭乗できさえすればトイレのシートでもいいと思っていた僕は、完全に間違っていた。
「たいした味じゃないわ」
女優はぼやきながら飲み食いした。通路を挟んだ席に座る大企業の重役らしき人物も、夜行列車で冷えた駅弁を食べる程度の顔つきで飲み食いした。
しかし、ファーストクラスが初めての僕はうきうきニコニコ。チョウザメのキャビアにがっついた。1缶三百円程度の偽物を食べた経験はあったが、本物は初めてだった。ちなみに、あれは何の魚の卵だったのだろうか。
キャビアの皿には微塵切りのタマネギも盛られていた。
「それをキャビアと混ぜて食べるのよ」
汗と埃のスーツに鼻が慣れたのだろう。段々と横を向くようになってきた女優が、タマネギを直接口に運んでいた僕に気づき教えてくれた。
「だいたいこの微塵切り、目が粗すぎるのよ。だから今一だわ」
しかし、国境近くのドライブスルーで食べたハンバーガー以来何も口にしていない僕にとってはなおさら極上品である。
「キャビアって、お腹がすいている時に食べるもんじゃないのよ」
女優は呆れ顔でつぶやいた。
「和食にしますか? 洋食にしますか?」
ようやくキャビアのお代わりが止まったのを見届けた客室乗務員はチョイスを提示した。洋食を選んだが、餓鬼のような僕を哀れんでか、結局両方とも出してくれた。
カエルのように破裂しようなお腹になった僕は、ようやく隣りの女優が出演した映画について記憶を辿る余裕ができた。一年ほど前、TVの深夜劇場で見た邦画、そのヒロインが隣りの女優さんだった。
「とっても良かったですよ」
僕は褒めた。
「なかなか映画を観る機会がない私には、観るイコール厳選された作品ということで、それでも良かったと思えることは即ち最高ということなのですよ」
やめておけばいいのに、酔っ払った僕は訳のわけらない評論を口走った。でも、彼女は悪い気はしなかったらしい。愛想が随分良くなってきた。
だが、よく回った高級酒でばたんきゅー。フットレストまであるファーストクラスの席は少なくとも僕にとっては高級ベッドのようにゆったりとしていたから、頭を女優の肩にもたれることもなく、その香水にだけ包まれてぐっすり眠った。
成田空港ではビデオ製作会社からバイクでやってきたアルバイト風の男の子が待ち受けていた。彼へテープを渡し、僕は完全企画社へ直行した。
藻鷹さんは例の倒壊しそうなビルの二階で待っていた。僕は起こった事実を全て話した。
「要するに、尾倉浜さんはニックに仕事を丸投げ。丸投げされたニックはパンクして失踪。そういうことか・・・」藻鷹さんはコメントした。
その顔からは、いつもの笑みが消えていた。不安そうにも見えたが、何か大きな決心をしようと迷っているようにも見えた。大きく息を吸ってから藻鷹さんは言った。
「状況、よく判りました。で、ニックが失踪したということは、誰かが彼の代わりをしなければならないと思うんです」
「当然、そうですよね。だから、これからアシスタントプロデューサーの蚊西君に、報告しに行きましょう!」
「いやね、そうではなくて・・・。ご相談なのですが、田中さん。あなたにニックの代役をしてもらうことはできないでしょうか?」
「えっ?!」
「もし引き受けてくれれば、イベント費用を全部、我が社を通してもらうよう、尾倉浜さんに働きかけてみようかと思うんです」
イキイキとした顔に転じた藻鷹さんは続けた。
「この前も飲みながら話したように、以前から大口の仕事をするチャンスを狙っていたわけですが、いいチャンスじゃないかと思うんですよ。海外イベント請負いの実績を作るのに・・・」
(うーん・・・)
僕は考え込んだ。藻鷹さんはいい人だし、お金も気前よく支払ってくれる。
だが、具体的にどうやって代役をしたらいいのだ。それこそ一度尾倉浜さんに嘲笑されたように、ロサンゼルスにオフィスすら持たない身である。そのうえ四輪の免許もないから、移動もままならない。二輪車という手はなくもないが、もう何年も乗っていなくてスキルは落ちていて危険だろうし、そもそもどこでバイクを調達していいか分からない。
考え込んだまま黙っていると藻鷹さんは言った。
「田中さん。どこか一手に引き受けてくれるイベント会社を現地で捜せませんでしょうか?」
「でも、それがKRPに該当するわけじゃないですか・・・」
「ええ。しかし、それが役立たずになったのだから、改めて別の会社をみつけて・・・。発注や支払いはうちが責任持って行いますので」
「ええ、まあ、そういう考えもあるのでしょうが・・・」
丸請けした仕事を丸投げするという理屈はすでに理解はできていたものの、具体的にはどうやって投げる先を捜したらよいか判らず考え込んだ。
「田中さん、どなたか米国に知人はいないのですか?」
「えー、そうですねえ・・・」
カレンはまだ知り合ったばかりだし、たとえ彼女が手配してくれたとしても、そうなってしまったらニックの代理者として彼女が実行したと解釈されてしまい、KRPから完全企画社へと支払いの流れを変えるには至らないだろう。
(誰か他にいないものだろうか?・・・ あっ、そうだ! ボブに訊いてみよう)
思えば、ボブ・ホフマンとは広報課用のプレスイベント職務分掌マニュアルを一緒に作ったことがある。今はシアトル本社にいるはずだが、以前はロサンゼルス支社でも働いていたはずだ。しっかりとしたイベント会社を知っているかもしれない。
「一つ、信頼できるルートを思い出しました」
僕は、辞めた会社およびボブのことを藻鷹さんへ話した。
「そうですか! じゃ、すぐに聞いてみて下さい」
僕は辞めた会社の後輩にダイアルインで電話をかけ、ボブがいるはずのシアトル本社の番号を教えてもらった。
(だが、今シアトルは一体何時だろう? ま、いいか。どうせ、自宅へ電話するわけではないし。とにかくかけてみよう)
守衛だろうか? 無愛想で野太い声の男が電話に出た。
「ボブ・ホフマンさんをお願いします」と言った後、「urgent(至急です)」と遠慮しながらもハッキリと伝えた。すると「ちょっと待ってくれ」と言われ電話を保留にされた。
「ヘーイ!」
すぐに元気なボブの声が聞こえた。
「ボブ?」
「ヘーイ、ヨシ」僕のファーストネームはヨシオである。
「ヘーイ、ボブ。まだ働いていたのかい?」
「まさか。自分の家だよ。至急の電話は全て、自宅へ回す手順になっているんだよ」
「あっ、ご免なさい。夜遅くに電話して・・・」僕は詫びた。
「大丈夫、大丈夫。それより、久しぶりに君の声が聞けて嬉しいよ。どこから掛けているのかい?」
英語が達者ではないことを充分知っているボブは、ゆっくりと尋ねてくれた。
「日本から・・・」そう言った後、電話した経緯をぶつ切りの英語で話した。話を区切るたび、彼はゆっくりと落ちついた相槌を打ち、「continue(さ、続けて)」と促してくれた。
「そりゃ、ひどい話だなあ」
ボブは陽気な声で驚いた。
「僕みたいに日本で仕事をしたことがある人間ならまだしも、そうでなきゃ、誰も君の話を信じてくれないよ。だいたいそのプロデューサーはどういうつもりなんだ。他人に任せ切りならば、さっさと交替してしまえばいいじゃないか。エクゼクティブ・プロデューサーでもあるまいし」
が、呆れながらも、さっそく依頼に応じてくれた。
「ちょっと待っていてね・・・」ボブは言葉尻を延ばしながらゆっくりと言った。
「役に立つ会社を思い出したから、今、電話番号を捜すね。あったあった。ヨシ、メモはいいかい?」
その会社は「イベントムーブ」という名前だった。ボブの説明によればLAでも指折りのイベント会社だそうだ。アカデミー賞受賞式のパーティーも受注するほどの実力で、社長はやり手の女性。利益さえ見込めれば、かなりの無理でも効くらしい。その夫は弁護士で、副社長も兼ねている。だから法的側面でも大変信用もできるし、条件さえ合えばきっちりとした契約も可能だ。実際、ボブがロサンゼルス本社時代に、プレス発表に伴うパーティーを発注したことが何度かあるという。
「ただし、彼女はやり手な分だけ、米国人ですら驚くぐらいハッキリものを言う人だから、心しておけよ」
「その辺は、昔、鍛えてくれたはずでしょ?」
「いやいや、彼女の迫力には、僕も縮み上がるぐらいだ」笑いながらボブは言った。
「冗談だよね」
「いや冗談じゃないよ」と今度は笑わないで言った。
ボブは、「必ず」明日一番で連絡をしておくと言った。彼が「必ず」と言った時は、いつも絶対に「必ず」だ。信頼筋の紹介で僕はホッとした。それに、ボブでさえ縮み上がるほどハッキリものを言う女性社長とのこと。これまで全てがあまりにも曖昧だったから、そういう相手こそ今必要だった。以心伝心やら阿吽の呼吸やら、のどかなことを言っている場合じゃない。
この仕事が終ったらシアトルに遊びに寄ってくれとボブは言い、「ヨシ。君なら必ずやれるさ」と電話を切った。ともかくボブの「必ず」はいつも絶対に「必ず」だ。もりもりと自信が沸いてきた。
「尾倉浜さんには私が連絡して承認をとっておきます。一人で大変でしょうけど、ロスに戻ってそのイベント会社へ依頼してみて下さい」別件の仕事で渡米不可能な藻鷹さんは言った。
「はいっ! でも、その前に、アシスタントプロデューサーの蚊西さんに報告をお願いします。私も一緒に行きますから」
藻鷹さんと僕は金星広告へタクシーで急行した。蚊西君はいたものの、彼はどうしたらよいのか判断がつかず、オロオロするだけだった。全く、アシスタントになっていない。それを見て取った藻鷹さんは、蚊西君からギリシャのホテルの電話番号を訊きだし、その場で国際電話をかけたが、尾倉浜さんは外出で不在だった。片言の日本語が話せるホテル従業員が言うには、どうやら船中宿泊の地中海クルーズに出たらしい。きっと秘書も一緒なのだろう。藻鷹さんは、至急電話乞うとのファックスをとりあえず送った。
これ以上、蚊西君と話しても話にならないと思った僕たちは、完全企画社へ戻ることにした。「ちょっと待って下さい!」と蚊西君が引き留めた。そして、尾倉浜さんのデスクの山積みの書類の中から英文書類を全部抜き取り、大きな封筒に入れて僕に手渡した。
「回転ガールズ関連の資料も混じっているかもしれないけど、とりあえず・・・」
尾倉浜さんが関わっている仕事で英語が絡むのは、本件と回転ガールの件だけらしい。蚊西君が渡してくれた資料は、カレンが捜してくれたニックの資料の十倍ほどあった。その量に面食らったが、手掛かりは何でも欲しい。そのまま受け取り立ち去った。
「英語、話すのは少しできても、読むのは全く苦手で・・・」四ッ谷へ戻るタクシーの中で僕は藻鷹さんに相談した。
「誰か翻訳してくれる人、ご存じでしたら、頼んで頂けますか。できれば低料金で・・・。末締めの翌々月末振込みです。もし着手金とか必要ならば、立て替えておいて下さい」
(あれ? お金がなくなってきちゃったのかな・・・)ふと、そう思った。
完全企画社の入っている倒壊寸前のビル。僕ほどではないものの藻鷹さんのよれよれのスーツ。ふと思うまでもないのだろうが、これまで気前よくお金を支払ってくれたものだから、僕はすっかり無神経になっていたのである。いくら緊急とはいえファーストクラスで帰ってきたことが後ろめたくなり、そのことは万事決着してから打ち明けようと決めた。
完全企画社へ戻った僕は、知人という知人へ電話をかけた。翻訳を引き受けてくれる人を捜すためである。
前の会社の関係で、翻訳を手配してくれる会社は知っていたが、とても高額だった。ましてや、急な仕事だし、今の時点ではどれだけの量を依頼することになるかも見当つかない。こんな状況下、現役のプロが引き受けるわけはなかろう。しかし、引退した人ならば、引き受けてくれるかもしれない。たとえば結婚して主婦専業になった人とか・・・。なにしろ女性が多い業界である。それに通訳と異なり、翻訳は在宅でも可能だ。
住所録に書かれた順に電話を掛けていくと、あの結婚式に招待してくれた同級生の順番となった。それは、彼がまだ独身で親元に住んでいた頃の番号であった。新居や勤務先が記載されていないので教えてもらおうと、構わず掛けた。電話に出たのは女性だった。一瞬、お母さんかなとも思ったが、それは彼の妹だった。泊りがけで遊びに行った際、唯一得意だった世界史を教えてあげた事もあってか、すぐ僕のことが分かった。卒業後就職し結婚したものの離婚してしまい、子連れで実家に戻っていたのである。
一応は理由を述べてから兄貴の電話番号を教わろうと手短に事態を説明すると、
「それなら、しょうこちゃん!」突然、妹は言った。
(えっ?!・・・)僕は絶句した。
「あの祥子ちゃんよ。ほら、田中さんが片思いをしていた。忘れたの?」
片思いがバレていたことを今頃知って赤面したものの、説明に食い入った。
高校卒業後、祥子ちゃんは語学の専門学校へ行き、その後、留学をした。日本へ戻って翻訳の仕事をしていたが結婚し、出産育児のため現役を退いた。僕が同級生の挙式で会ったのはプロ引退後まもない祥子ちゃんだったのだ。
(話がうますぎる・・・)
だが、良い出来事でも悪い出来事でも、予期せず突然起きる場合もあるものだ。
例えば中学生の時、体育の授業前にグランドを歩いていた僕は、いきなりこめかみにショックを感じて頭を抱えこんだことがある。自分のコントロールの良さを証明したい野球部のピッチャーが、小石の標的にしたのである。「すげえっ!」という彼の仲間たちの歓声が聞こえた後、ピッチャーは走り寄ってきて「ごめん、ごめん」とへらへら笑いながら謝罪をした。悪い事例を先に出してしまったが、良いほうならば、小石のように硬い物ではなく何か柔らかい物、そう、例えばマシュマロか何かが突然飛んで来たっておかしくない。
悪い出来事は当然と思い、滅多にない良い出来事はすんなりと信じようとはしない。悲観的というか人間不信というか・・・。反省した僕は祥子ちゃんへの依頼を決心した。
ところが、直接電話を掛ける場面を想像しただけで、心臓は破裂しそうになった。僕は同級生の妹に祥子ちゃんを説得してくれるよう依頼した。
返事が来るまで、時間が恐ろしいほど長く感じられた。僕宛てに掛かってくる予定の電話はその一本だけ。別の電話が何本も掛かってきたが、ベルが鳴るたび、ギクッとする。その姿に、藻鷹さんは怪訝な顔をした。一時間ぐらい後だろうか。やっと掛かってきた電話を藻鷹さんからもぎ取った。
「引き受けてくれることになったわ」
同級生の妹は言った。祥子ちゃんは葛飾区内に住んでいるそうで、明日、京成電鉄で成田まで来てくれることになった。
(人生、マシュマロが飛んで来ることもあるのだ・・・)
感動のあまり、藻高さんを前にしながらも涙をこぼしそうになった。
以前までに担当していたその他諸々の仕事については、すでに引き継いであった。しかし、再度確認したい点が藻鷹さんの側にいくつかあり、遅くまで打ち合わせをした。
夕食抜きとなったので、前にも行った居酒屋へ寄って別れることになった。
「ドタバタに巻き込んで、済みませんねえ。でも、一つよろしくお願いします」
「ええ・・・」
僕は虚ろな返事をした。
ほんとうにドタバタだ。でも、だからこそ祥子ちゃんとまた再会する結果に・・・。が、彼女は結婚してご主人もお子さんもいる。独身の彼女に会うのとはわけが違う。会えたところで今さら何だ!
でも、会えないよりもまし?・・・。
はなから諦めていたんだから、ただ友達として付き合おう!
何を馬鹿なことを! 友達と呼べるような関係が、過去にあったわけでもなし。あくまで仕事の関係と割り切るべきだ!
が、突然にもかかわらず空港まで来てくれる。いくら京成電鉄の沿線に住んでいるとしてもだ。ひょっとすると彼女のほうも強く会いたがっているとか? 翻訳だけなら、電話とファクシミリだけでも済むところだしな・・・。
いや、待てよ。初めての仕事だから前金を取りに来るのかも? なにしろ高く払えない。前金ぐらいは当然ともいえる。
でも、大企業のエリートと結婚したという。お金には困っていないはず。それに天使のような彼女がガメついはずがない・・・。
こんなあんばいであれやこれやと考えていた僕は、藻鷹さんとの会話を終始虚ろなものにしてしまった。だが、藻鷹さんも今後の成り行きを心配しつつも、完全企画社の海外進出を夢みていたようで、虚ろだった。二人して虚ろな姿に、オーダーを取りに足を運ぶ店員はさぞ呆れたことだろう。
終電でアパートに着いた。魚のアラの臭いが、前世から親しんでいたのではと思えるほど懐かしく感じられた。夜逃げのように散らかした部屋も、故郷の景色のように感じられた。
リトルトーキョーのホテルでシャワーを浴びてからどのぐらい経つのだろう?
自分自身の汗を下地に、ハイウエイの排気ガス、サボテンも生えない荒野の土埃、キャビアに玉ねぎのみじん切り、女優の香水、居酒屋の熱燗に豚モツ煮込み、魚のアラ・・・。色んなものが染み付いてさぞヒドい臭いだろう。このままで祥子ちゃんに会うことはできない。たしか東京駅にはいつでも開いているサウナがあるはずだ。
一番で東京駅に行き、成田エキスプレスで空港へ向かうことにした僕は、朝五時にアラームを設定した。
三時間ほどの睡眠は浅かった。だが、とても長く感じた。自分が寝ているのか起きているのか分からないほど、祥子ちゃんの夢を繰り返し見た。