十五、ハゼの丸ごと醤油焼き
「高泉さん。高泉さん。高泉さあーん」
ふと気がつくと、高橋さんが踊り場で呼んでいた。
「本堂で寝たのかい? 季節的には、いいかもしれないけど・・・」
仏像と火炎大神と観音図。高泉はその中心に横たわっていた。そばには濁り酒の一升瓶が立っていた。さほど減っていない。
「なんだ。夢だったのか・・・」
昨晩、いつ本堂へと酒席を移したのだろう。記憶がない。アルコールで前後不覚になることなど、大学生の時、大失恋で安ウイスキーを一本飲み干した時以来だ。軽い頭痛もした。立ち上がってみると、周囲がゆらゆら揺れる。
「たいそう飲んだみたいだねえ。今日の約束、キャンセルでもいいよ」
「あ、釣りの約束か。忘れてました・・・」
「そう。じゃ、一人で行くね」
「いえいえ。私も行きますよ。今日はハゼですよね?」
このふらつきようでは、しゃがんで草刈りなどできそうもない。高橋さんと釣り糸を垂れるほうがよさそうだ。
「でも、そんなフラフラしていてはなあー。運河に落ちでもしたら困る。私はかなづちだから、助けてあげられないよ」
「大丈夫。たいした量は飲んでないから」高泉は一升瓶を高橋さんへ示した。
「それだけ? せいぜい二、三合だね。でも、ずいぶんとフラついているじゃない。風邪でも引いたのでは?」
「少し時間が経てば治りますよ」
高橋さんを待たせたまま、裏小屋まで釣り道具を取りに行った。着替えるのは面倒臭い。昨晩のまま短パンにTシャツ姿で表に出た。
「おやっ? それ、火傷じゃない?」
高泉の左手首に五百円玉ほどの赤い腫れを見た高橋さんは言った。
「ちっ、しみやがる・・・」
触れてみるとビリッとした。どうして火傷をしたのだろう? そういえば昨晩、味噌屋のお婆さんのために焚き火をした。それが原因かな? いや、貸りた七輪が原因かな?
「あっ、そういえば俺、七輪に封をしたっけ?」高泉は門前を出た辺りで練炭を節約する必要を思い出した。
「七輪? 風流だねえ。高泉さん、持っているの?」懐かしそうに高橋さんは訊いた。
「試しに借りたんですよ。味噌屋のお婆さんから」
「長屋の味噌屋さん? あそこ、うちのワイフも味が気に入っていて、ちょくちょく買ってくるし、田舎へ贈る時もある。あの人なら、七輪の一つや二つ、持っていそうだね」
「ちょっと見てくる。高橋さん、先にやってて。いつものポイントでしょ?」
「いや、私も一緒に行くよ」
高橋さんは嬉しそうに言った。
「あれま。ちゃんとふたしてある。通気口の栓もしてある!」
「懐かしいなあ〜」
高泉の驚きを尻目に、高橋さんは道具を肩に掛けまま腕組みをして、何十年ぶりかの七輪に魅入った。
「じゃ、行きましょうか」高泉は高橋さんをいつもの場所へと促した。
釣りの間、高橋さんは七輪の思い出をきっかけに、退職に至るまでの身の上を話した。高泉とは一世代程度の差でしかないが、戦後の日本の変化に関する知識・認識のギャップは相当あった。いい勉強になった。
「そう言えば、坂上部屋に逗留している間。毎朝、熱心だったねえ」ひとしきり身の上話を終えた後、掛かったハゼを外しながら、高橋さんは言った。
「ほら、朝稽古の観察だよ」ピンときていない高泉を、高橋さんはプッシュした。
「ああ、あれですか? なんで知ってるんですか?」
「私も窓からのぞいていたんだよ」
「なんだあ、声を掛けてくれればよかったのに」
「あまりにも熱心だったから、気が引けたのさ。親方と並んで座っていたから、最初は関係者かと思ったよ。あんただと分かった時には、びっくりしたねえ」
「親方やお上さんを紹介できたのに」
「お上さんには届け物をしたので、すでに知り合いだよ」
「あ、業務用マーガリンですね。お上さん、感謝してましたよ」
「そう。親方からもお礼の電話があって、後援会に入ることになったよ」
「へえー」
「あんな熱心に朝稽古を観ていたんだから、高泉さんも入ったら?」
「いやあ、後援会に入ると、何かとお金がいるんでしょ?」
「おそらくね。でも、私は年金と貯金が頼りの身だから、安くしてもらっておくよ」
たしかに高橋さんの言った通り、生の相撲は大迫力。高泉はすっかり魅了された。金さえあったら後援会に入りたいところだ。
「なあに、あんなにすごい迫力でも、弱小部屋。だから、会費も安くしてもらえるさ。横綱や大関どころか、十両もいないし・・・ どう? 高泉さん。一緒に」
「ん、まあ、もし余裕ができたら・・・」
高泉は答えをしぶった。が、それで本堂前の賽銭箱設置の案を思い出し、高橋さんにも相談してみた。
「そうだねえー。イカサマになるとは思わないけどねえー。宗教に関する法律のことはよく知らんけど、正月に深川の七福神めぐりをした時、仏前にお賽銭箱を観た気もするし」
「じゃ、ひとつ強気でいくか」
「たとえば賽銭の一部は、仏を守る相撲神に寄進されるということにでもして。それから、境内に土俵を作って何かの儀式をしてもらって、とか。こんな企画はどう」
「ふーん、なかなかのアイデアですね」
相撲は神道に則っている。仏教ではない。矛盾した企画を高橋さんは述べたわけが、まだ勉強が足りない二人は気がつかなかった。
「さすがにマーガリンの会社で教育部長をしていただけことがありますねえ」さきほどの身の上話で得た情報を引き出し、高泉は誉めた。
「いやあ、競合他社との販売競争が激しくて、営業企画力の研修にやたら力を入れたから。広告代理店出身の講師とか招いてね」
高橋さんは、教育部長という最期のキャリアにまんざらでもない様子だった。
「そうだ、高泉さん。今、思いついたんだけど。あなた、形式論理学とかの勉強で、分析や体系化などのスキルを習得したって、言っていたじゃない。ほら、この前、地面に図を描いていた際に」
「ええ、まあ。で?」
「親方から後援会勧誘の電話をもらった際、さっそく部屋の運営について色々と話が出てね。『今や、高度な知能も必要だ』と親方は言うんだ。技もきわまり、体格も良くなり。その上、合理的な筋力トレーニングも普及し切った現代相撲では、なおさらね」
「それ、私が泊まっていた時にも聞きましたよ。データをストックし、敵の取り口を分析していると言ってました」
「そうそう。で、親方が言うには、だからこそ若い者の思考力をもっと向上させる必要がある」
「そこで、論理学を教えてあげるということか・・・…」
「ただし、 でね。その代わり、後援会の会費も無しにしてもらう」
「なるほど。まあ、部屋からはまた酒をもらったことだしなあ」しっかり者のお上さんがうまく配分した原資は、こんな時にも活きてきた。
今日はハゼの食いがあまりよくない。それもあって、二人はこの研修企画に没頭した。コンクリートの護岸はますます暖かく、お尻もポカポカだ。高泉より先行して坂上部屋の情報を入手している高橋さんは、さらに企画内容を掘り下げていった。
「でも、あなた自身からは切り出しにくいかもしれんね。まずは私が、お上さんに言ってみるよ」早くも後援会員の自覚を持った高橋さんは、そう言ってくれた。
陽が傾いてきた。ハゼは二人合わせても十匹ちょっとだった。
「こりゃあ、持って帰るまでもないねえ。あなたに全部あげるよ」釣具を片付けながら高橋さんは言った。しかし、どう調理していいものやら。なにしろ刺身で食べれるほどの肉厚がない。
「七輪で丸ごと醤油焼き。それでも食べれますかね?」門前で高泉は訊いた。
「おお、そうだ。七輪があるんだったなあー」高橋さんは自宅へ向きかけた足を止めた。
「それじゃ、研修企画のお祝いとでもいきませんか? 濁り酒もたくさん残っていることだし」汗で二日酔いを流した高泉は誘った。
「よおーし。やったことはないが、ハゼの醤油焼きにチャレンジだ! 晩飯まで時間がある。軽く一杯いこう。でも、七輪もそうだがアウトドアも久しぶりだなあ」
話しは決まった。キャンプ用の皿やカップは洗い場に置いたままだった。高泉は裏小屋へ、お醤油とナイフを取りに行った。その間、高橋さんはボーイスカウトのように目を輝かせながら、練炭の再着火に取り組んだ。
釣りが好きな人の多くは、魚をさばくのがうまい。高橋さんもそうだ。しかし、崩落寺では警察から返却されたサバイバルナイフしかない。最初の二、三匹は、てこずった。が、四匹目あたりから手際よくなってきた。
「使ってみて分かったけど、これ、いいナイフだね」ハゼを全部さばいた後、さらりと水洗いし洗い場のシンクに立てかけたサバイバルナイフを指して、高橋さんは言った。
「なにしろジャングルに置き去りにされたしても、これ一本で生き延びることができるよう設計されてますからね。多目的ながらも、それぞれの機能がきゃしゃになることもなく。タフで器用なナイフです」
沢登りとキャンプに凝っていた高泉が一点豪華主義で高額投資したのがこのナイフ。手にとり、我ながら改めて感心した。夕陽が近づく時間帯とはいえ、時季が時季なだけに赤みの少ない斜光。ナイフでぎらりと反射した。
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