三十七、カルテと照合
病院の資料整理はまだまだ続いていた。が、朝食と昼食、そして三時のおやつにありつけるから都合がいい。
専用のオフィスと化してしまった応接室へ、保温ジャーからお櫃へ移した御飯、電子レンジで温め直したおかず、味噌汁、お茶が運ばれてきた。お茶は、昨日までは冷えた麦茶だったが、今朝からは温かい番茶へと変わった。ようやく、クーラーに頼る必要がなくなったからだ。その代わり、応接室の窓は開け放たれていた。
資料が山積みされた応接テーブルの隅を使って、高泉は腹一杯食べた。
「お済みですか?」
高泉が朝食を終えるタイミングを心得た事務長が、応接室へ入ってきた。
「あ、ご馳走さん」
事務長もソファに腰掛け、自分の机から持ってきた専用の茶碗に、お茶を注いだ。
「ところで、事務長。今、ダブルチェックしている寄付情報と貸し倒れ情報、一部、カルテと照らし合せてみてはどうかと思うんだ」お茶を飲みながら高泉は言った。
「と言っても、カルテのこと、まだよく分かっていないけど。でも、患者の名前と傷病の程度は、必ず記載されているんだよね」
「はい。しかし、貸し倒れとカルテの関係は分かりますが、寄付情報とカルテの関係は?」
「ほら、寄付情報、とりあえず二大分類できたろ。病院に世話になったから寄付した人たちと、世話になってないが寄付した人たちとにさ。カルテと照合するのは、前者のほうだ。なあに、傷病の種類と程度と、寄付額の相関性をつかんでみようと思っただけさ」
「分かりました。ただ、カルテも膨大な情報量なので、そうとう時間が掛かるとは思いますが」
「うん、そうだろうね。だから、まずは試しに一部だけ照合してみたらと思うんだ」
「一部とは、具体的にはどの辺りの年代ですか?」
「貸し倒れとの照合は、計画的というか、悪質というか。そういった貸し倒れが多発したと思われる時期を、選んでみてはどうかと思うんだ」
「それですと、終戦後から十年内の時期でしょうかねえ」高泉同様、当時まだ生まれていなかった事務長は確信なく答えた。
「で、寄付情報のほうはどうされます?」
「貸し倒れと同じ時期がいいね。作業効率もいいし、それにひょっとすると、なにかの傾向がつかめるかもしれんし」
「はい。分かりました。では、終戦後から十年内のカルテ、探してきます」
「ふえっ。その時期をどうするというんじゃ? 高泉和尚よ」
風通しを良くするために開けたままの扉から、院長が入ってきた。
「おっ、院長。おはようさん。だが、和尚はなしだぜ」高泉は自分でお茶をつぎ足しながら、院長へ挨拶した。
「で、終戦後十年をどうするんじゃ? ふえっ」
院長は、反対側のソファに事務長と並んで座った。高泉は話を繰り返した。
「ふえっ! 調べんとも、貸し倒れのほうは最初からみえみえのケースばかりじゃったがな」院長は言った。
「照合しなくても確信できるの?」高泉は訊いた。
「みえみえなケースはたいてい、わしに回ってきたからな」
「なぜ、院長にばかり、そうした患者が回ってきたの?」
「若造だったからじゃよ。上客や常連は、先輩やベテランが担当したから。ふえっ」
「ほんとかいな」
「ああ。ほんとじゃ。そのぐらいの振り分けをしなければ、業務が回転しなかったんじゃよ」
「それにしてもなあ・・・」
「じゃが、そんなケースもちゃんとこなしたわな。なんせ、医療事故を起こしたらそれ以上の仕返しされそうな奴ばかりだったからな」
「確信できるの? まさか、記憶が違ってたりしてないだろうねえ」
「ことごとく救ったので、裏社会でも評判が広がって、駆け込みがさらに増えたそうです」事務長が補足した。
「なるほど。ま、院長が確信あるなら、照合しなくてもいいか・・・。どのみち俺はカルテ読めないから、誰か読める人に付き添ってもらう必要もあるし」
「細かいことは忘れるばかりだが、死なせたかどうかぐらい、覚えてるわな。じゃが、やってみよう、ふえっ」
「というと、院長自身がカルテを読んでくれるの?」
「ああ、わしの思い出のためにもな。ふえっ」
「なんだ、院長、感傷的なこと言って」
「ふえっ。あん時は大変な思いしたが、今振り返ってみれば、懐かしいわい」
「懐かしいだんなんて。老いたか、院長」
「ふえっ。まだ老いたりせんよ。ただ、あん時尽くしてくれた看護婦たちを、カルテを見ながら思い出してみたくなったんじゃ。ふえっ、ふえっ」
「ああ、分かった分かった。それならまだ老いてはなさそうだ。ほんじゃ、角突合せながらの照合になるが、カルテのほう頼むよ」
「あいよ。ふえっ」
「で、いつから付き合ってくれんの?」
「なに、さっそく付き合うわい。なんじゃか、あん時の看護婦が急に懐かしくなってきた。ふえっ」
「おいおい、医者のポジション利用して、セクハラしてたんじゃ?」
「あん頃はそんな概念なかったが、何人かそうしたかもしれんな。ふえっ」
「終戦の年の分は、見当たらなかったので、翌年からでもいいですか?」
二人がいつものパターンを演じている間に、ダンボール箱を運んできた事務長が訊いた。
「えーっと、待ってね。こっちの資料はまだ一九四五年までしかチェック済んでいないんだけど。えーと、一九四五年は何の年だっけ、えーとえーと」
「一九四五年は昭和二〇年だから・・・」と事務長も一緒に考えた。
「終戦の年じゃよ」院長が言った。
「ということは、そのダンボールが終戦の翌年のものだとすると、一九四六年。つまり昭和二十一年か。さ、いいかい院長。俺が自分でダブルチェックしながら、さらに院長と照合するトリプルチェック方式で、ちっと手間食うけどよ」高泉は院長へ確認した。
「ああ、構わんよ」
「ほんじゃ、昭和二十一年一月から始めるね」
事務長は本来業務に戻った。そして、院長と高泉の二人三脚が、ダンボール箱と資料だらけの応接室で開始された。
院長の目は若者のようには融通が利かなかった。だが、くずしながらも太めに大きく書かれたカルテの字は、判読の手助けになった。
職に就きたての一介の若い医者だった院長と、他の医者たちのカルテは、当番の関係で混ざこぜになっていた。しかし、科を越えて混ざり合ってはいなかったので、該当するカルテを院長が取り出すのにさほど時間は掛からなかった。が、小口の寄付と貸し倒れの件数が多かったため、昼になっても昭和二十一年の三月ごろまでしか照合できなかった。
遅めの朝食をとった高泉には、すぐの昼食になった。しかし、腹に負担が少ない病院食。休憩も兼ね、院長と一緒に昼食を頂いた。お茶を飲みながら数分、腹ごなしの悪態をついた後、二人は照合作業を再開した。二時頃には要領もよくなり、二時半頃には、昭和二十一年の六月中旬まで照合した。
「ふうーっ! 一気に進んだ感じしない? 院長」少し息があがった高泉は手を休め、ソファにどったり身体を預けた。
「そうじゃな。コーヒータイムにするかいな。ホットかいアイスかい?」院長は訊いた。
「えーっと。頭がすっきりするように、濃いホットコーヒーでも頂くかね」
「砂糖とミルク、今日はいかが致しますか?」
応接室にタイミング良く入ってきた事務長が訊いた。なにしろ、高泉はコーヒーについても気まぐれで、ブラックだったりミルクを入れたり入れなかったり、変化する。
「ほんじゃ、たっぷり砂糖とミルクを入れて、ミルキーで甘いやつといくか」
オーダーを取った事務長は出ていった。
「お、いけねえ。『ミルキーで甘い』と言えば、お汁粉屋の集会、時間が変更になったの忘れてた・・・」
「コーヒーぐらい飲んでいけ。でも、なんじゃい、集会って?」
「あら、院長には話してなかったっけ?」
高泉は、旧式ボイラー保存運動の経緯をかいつまんで院長へ伝えた。
「ふえっ! 和尚が風呂に入れなくなってしまうわけか。臭くなり出したら事務員が迷惑じゃから、集会、行ってこい」
「悪いね。でも、あと二十分は大丈夫だから、六月末まで終わらしちまおう」
「ああ、和尚がかまわんならな」
「和尚はなしだって言ったろう、まったく! おやっ?」高泉は再開しかけた作業の手を止めた。
「どうした、和尚」
「うーむ、別に・・・。ただ、ずいぶん個性的な字なもんで、つい目に留まったんだ」
「なんじゃ、和尚は、書をやるのかい?」
「まさか。ただ、ほら、この字だけ、やたら目立たない?」高泉は寄付帳を院長側に向け、寄付者本人が名前と住所を記入する欄を指で示した。
「ふーむ。和尚の言う通り、個性的じゃな。これだけ浮いている感じじゃ。ふえっ!」
たしかに、その字は浮いていた。名前は山田太郎。男性だ。丁寧で綺麗で太くて力強く几帳面な字である。ところが、丸文字のようなエッセンスも含まれている。男の力強さと少女の明るさを、混ぜ合わせたような印象だ。
「なんだか、青空に描いたように、スカッとした感じだなあ」
「たしかにスカッとした字じゃが。どれ、何の治療をしたのかな? 山田太郎、山田太郎・・・」院長はカルテをめくった。
「ふえっ! 初診はわしじゃ。右足、踵の骨折、足首の捻挫。手のひらには裂傷か・・・。はて、どんな人物じゃったかのう?」院長はソファに身を埋めて考えた。
「あっ、あれれ。よく見たら、この山田太郎さんの住所、寺と全く同じだ!」
「お待たせしました! 甘すぎたらご免なさい」高泉が住所で驚いたところへ事務長がトレイを持って元気よく入ってきた。
「あっ! 甘いと言えば。お汁粉屋の集会、また忘れるところだった!」急いでコーヒーを飲み、高泉はお汁粉屋へ向かった。
info@free-web-college.com