四十五、逃亡者
講師派遣の会社に登録してから相当の日数が経った高橋さん。しかし、他にも登録されている講師の数はやたら多いようで、結局、たいした稼動日数はない。だから釣りは以前と同じ様に可能だった。
「今日は、デザートも楽しみだね。部屋の斉藤君からも、とてもおいしいって聞いているよ」さばき終わったハゼを醤油ダレにつけながら、高橋さんは言った。
「彼、すっかりはまっていて、常連客だよ」斉藤少年が八百屋から運んできたサツマイモを毎日焚き火で楽しんでいる高泉が言った。
「そう、いいねえ。どんどん食べて大きな力士になってもらわないとねえ」坂上部屋の後援会にますます熱が入る高橋さんが言った。
「もし身体が冷えそうになったら、言ってね。いもを放り込む段になって焚き火が足りなくならないよう、あまり沢山くべないてないから」
「ありがとう。冷えると言えば、島津さんは膝の調子、どうなのかあ」
「そんなに悪くないみたいだよ。また海外出張もしていることだし」
「そう。いやあ、本当に出入りが多いねえ。まさに国際探偵だ。で、今度はいつ帰国するって言ってたかい?」
「今度は、長くなるかもしれないとさ」
「ところで、掛け軸の作者について、その後、さらに何か分かった?」
「本名が分かったよ」
「へえー、やっと分かったんだあ」
「知事の協力もあって、島津さんがつかんだ。姓は『岸』で、名は『岳夫』だよ」
「きしたけお! なるほど、この本名の発音を捻って『石掛夫』としたわけかあ」
「そうだろうよ」
「ふーむ。それにしても、他に多くの作品を残していてもおかしくないよねえ。あれほど描けるのだから」
「ああ。島津さんも同じようなことを言ってたよ」
石掛夫こと岸岳夫に関する島津の見解を、高泉は話した。
岸岳夫を使って捻り出せる偽名のパターンは限られている。加えて、石が欠けるという意味を本人が持たせようとしたとの説を前提とすれば、石掛夫以外の偽名は考えにくい。墨一色の線画なだけに、製作時間も短くて済むはず。だから、他にも作品が沢山あってもおかしくない。だが、発見されたのは、結局、これ一点きりだ。
では、別の作者名で他の作品を描き残している可能性はないのか? 精緻な調査をしてくれた研究家と、彼が所属していた研究機関の判定によれば、画風がそっくりの絵はないという。水墨の宗教画に関しては世界最大のデータバンクとなる研究機関だ。それを信じるのが、妥当だ。
「犯罪者だったんだ! 作者はきっと、犯罪者だったんだ!」高橋さんは先を待ちきれず叫んだ。
石掛夫という名にせよ、山田太郎という名にせよ、素性を知られたくなかったからとの説は、高橋さんも既に知っていた。それだけに、犯罪者という代表格の理由に早く結び付けたかったようだ。
「いや。厳密には違う。裁判したわけじゃなからね。指名手配はされていたけど」
「何の罪状で?」
「殺人だよ」
「あ、やっぱり! なんとなく直感していたけど、あの観音。手を血で染めた罪悪感がなければ到底描けないだろうから」
「あー、高橋さん。その想像、外れているよ」
「え? どうして?」
「殺人容疑と言っても、ヒットマンへ依頼した容疑だから。つまり、本人は直接手を下していない。血は全く見ていない」
「そうなの?・・・ でも、たとえ現場にいなくても殺人を委託したのだから、観音図を描くほどの罪悪感が沸いたんだろうなあ」
「あー、高橋さん。その想像も、たぶん外れていると思うよ」
高泉は説明した。岸岳夫が殺人委託者という仮説は、ヒットマンの自白に依存していた。他に証人はいない。それに、岸は、逃亡しながら、無罪を訴える書簡をあらゆる所へ郵送し続けた。
「そんなことしてたら、すぐ捕まったのでは?」
「いいや。結局、指名手配のまま、時効になったよ」
「へえーっ。逃げ切ったんだ」
「まあ、逃げ切ったのか、野たれ死んだのか。今となっては誰にも分からない」
「それにしても、投函地から足取りがついて、捕まってしまいそうだけどねえ」
「ああ。だが、どうやら巧みに逃げ回っていたみたいだよ。もっとも、捜査当局の中にもヒットマンの自白を疑う者が多く、捜査に熱が入らなかったらしいけどね」
「えっ? そうなら、なぜ指名手配になったの?」
「戦勝国の外圧さ。殺されたのが外国人ブローカーだったから」
「あ、なるほど。国連の統治下というか占領下というか。各方面でやたら外圧があったと聞くからなあ。戦勝国どうしの力関係を米国が抑え切ってからは、整理されたみたいだけど。まあ、マッカーサーの力量もさることながら、原爆など足元にも及ばない水爆実験のデモンストレーションが効いたんだろうけどね。特に共産圏の戦勝国に対しては」
「そうだね。日本の敗色が濃厚になってから終戦を待つまでもなく東西冷戦は加速し、朝鮮戦争、ベトナム戦争へと続いていったわけだからね」
「それにしても、逃亡しながら無罪を訴える活動をしていたとは・・・ 旅費とかその他の経費、どうしていたのだろう?」
高橋さんの二つめの疑問に高泉は答えた。事件当時、岸岳夫は小さな商店主だったが、国際ルートにも関与する闇市場の急成長ブローカーとの説もあり、隠れ資金を国内どころか海外にも保管しているとまで囁かれていた。
「そうなんだあ。ということは、闇ブローカーどうしの国際抗争というわけ?」
「ああ。殺された外国人ブローカーは、どうみても抗争の犠牲者らしい。ただ、混乱期だったから、競合先はかなり多くあったようだ。岸岳夫だけが相手じゃない」
「ということは、ひょっとして・・・」高橋さんは自分で言い出しかけておきながら息を呑んだ。
「そうなんだ。岸岳夫は、別の闇ブローカーどうしの抗争の、濡れ衣を着せられた可能性もある。実際、ヒットマンと別のブローカーとの深い関係が、ヒットマンが獄中で死んだ後に浮上した。岸岳夫との関係は希薄だったことも分かった。警察の捜査に熱が入らなかったのも当然というわけさ」
「じゃ、岸さんは楽々と逃げ切ったのかなあ」
「今になって、文書の情報だけから想像する俺たちには、そうも見えるかもしれんね。だが、彼の立場では、必死だったと思うよ。捜査に熱が入っていないことは知らなかったろうし、形だけとはいえ指名手配は続いたのだから」
「なるほど。じゃ、隠れ資金があったのが救いだったねえ。実際、怪我で世話になった病院に寄付したほどだし。かかとの骨折だったっけ?」
「あと、足首の捻挫と手のひらの裂傷。カルテによればね。しかし、ネガティブに解釈をすれば、隠れ資金だっていずれ底をつくだろうし。大変だったと思うよ」
「でも、そうだったならば、病院に寄付したりせず、節約するんじゃないのかえ。逃亡先から部下に指示を出してビジネスを続けていたんじゃないのかな? どうせ、殺人犯にでっちあげられる以前から、闇の商才を発揮してたんだから」
「まあ、そうやってポジティブに解釈したいものだね。だが、どっちにしても、世話になった病院に寄付するということは、そう悪い奴じゃなかったのだろうよ。観音図も、無実で逃亡している苦悩が描かせたんじゃないのかなあ・・・」
「自分の手を血で染めた苦悩ではなく、犯していない罪を背負った苦悩ねえ・・・。よくわかってきたよ。今後はそういった気持ちで本堂に参拝するね」
「そん時には、お賽銭、はずんでね」
「うん。掛け軸保存のためにもね」
「ありがとさん」
「どういたしまして。ところで、石掛夫と山田太郎が同一人物なのは、どうやって確認したの?」
「筆跡だよ。岸さんの書簡と、山田太郎の病院での筆跡が同じだった」
「ほう。じゃ、無実を訴える書簡ですら、あの青空に描くような明るい筆跡だったんだ。ふーむ。きっと、くじけることのない心の持ち主だったんだろうねえ」
「そして、病院に書き残したアドレスが、崩落寺と同じだった」
「だから、なおさら三者は一致するというわけかあ。でも、なぜ崩落寺の住所を書いたのかな。居所を表明するみたいで、危険な感じがするけどね。追われている身ならば、でたらめな住所を書いてもよさそうなものだけど」
「島津さんが言うには、もし捜査が病院の記録に至った場合、それを逆利用して捜査の手間を増やす手段だったかも、だとさ」
「え? それがなぜ捜査を撹乱させることになるの?」
「寺のアドレスを見つければ、捜査当局は、寺について色々調べざるをえない。しかし、岸さん自身は、寺の創設者でも所有者でもない。それで、当局が少しは手間取る」
「だって、踏み込まれてしまったら?」
「すでに次の場所に移ることを前提としてたんじゃないのかな」
「ふーむ。で、当局は、その手間を取ることになったわけ?」
「いいや。病院にまで捜査が及ばなかったから」
「仕掛けは、無駄だったんだね」
「その仕掛けだけをみればね。だが、本人は、これだけじゃなくて、機会をみつけてはまめに仕掛けをしていったことだろう、と島津さんは言っていた」
「じゃ、掛け軸も、その仕掛けの一つだったりして・・・」
「かもね」
「まあ、ともあれ、捕まらなかったわけだ。さすが、闇ブローカーだねえ」
「ああ。でも、あくまでそう囁かれていただけで、断定できるわけじゃない。今となっては、どっちだっていいけど」
「そうだねえ。今となってはねえ。となると、残るは・・・」
「残るは、誰が隠したのか。なぜ茶箱の二重底に隠したのか。その二点だけさ」
「普古野さんの関わりについては?」
「普古野さんのこと、俺、高橋さんに話してたっけ・・・」
「ほら、ウナギの仕掛けをしてみて、全く駄目だった日」
「ああ、あの日ね」
「墓地のリニューアルの情報と併せて、聞いたよ」
「そうだったね。あの普古野さん。崩落寺も巡回の対象としていたことは、墓にあったノートからも、高尚寺の伝承からも、間違いない。日付は不明だが、何度も崩落寺に寄っていた。いわば住所不定だし、巡回エリアの関東甲信越に通いやすいし。崩落寺を基地としていたとすら言えるほどだ。かと言って、交通の便が悪い当時としては、巡回の範囲がべらぼうに広い。だから、あまり連泊はしなかったようだけど。その辺、加藤家の姉弟がノートの整理中だよ」
「あれ、ノートは島津さんの事務所に保管してあるんじゃなかったの?」
「そうだよ。加藤家が持っているのはコピーさ」
「でも、ノート、たくさんあったんでしょ。全部、コピー取ったのかい?」
「取ったみたいだね。海外出張した島津探偵の代わりに、分析している。この件に限ってのボランティアさ」
「ふーん、ボランティア調査員ねえ」
境内の生活に慣れた高泉には、冷え込みは感じられなかった。が、高橋さんは、少し寒そうにしていた。
「さあ、そろそろ帰るとするか」と高橋さんが言ったところに、ストラップで首にかけた携帯が鳴った。
「あ、あ、そう。今、ちょうど帰ろうと思っていたところだよ。ありがと」そう言って高橋さんは携帯を切った。
「そろそろ晩飯にするから、帰って来いって。あ、そう言えば、星乃湯の存続、ワイフがお礼を伝えておいてくれと言ってた」
「そう。どういたしまして。でも、奥さん、膝がまた悪くなったわけじゃ?・・・」
「大丈夫だよ。週に一、二回だけど、裸のお付き合いが復活できたお礼だって。じゃ、これで」
「うん。じゃ、明日の朝。今度は久しぶりにフッコだったよね」
「そう、フッコだよ。じゃ!」
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