四十七、本来の目的
「感謝はしてる」
フロントカウンターにいた星乃湯の主人は応えた。
「なにか不足でもあるんかよ」
「とにかく、あんたのおかげで経営を続けられること、感謝はしている」
「やっぱり、気に入らないことがあるんだな」高泉は詰め寄った。
「いや、気に入らないというのじゃなくて・・・」と言って主人はため息をついた。
「じゃあ、何か新しい心配でも発生したのかよ。助成金のおかげで、旧式ボイラーを改造して稼動させるより経営が楽になるはずなのに」
「ああ、分かったよ。あはは」主人は作り笑いをした。
「ちぇっ。なんだ、その顔は。はあーあ。すっかり気が抜けるぜ。ま、よしとするかあ」高泉は諦めて星乃湯から立ち去ろうとした。
「いや、待ってくれ、高泉さん!」主人は高泉を呼べとめた。
「すぐに交替してもらうから、どこかで待っていてくれないか?」
「俺はここでもいいぜ」高泉はフロントカウンターまで戻った。
「いや、ここじゃちょっとな・・・」
「なんだ。まずいのか?」
「いや、まずいというか、なんというか。とにかく、どこかで待っていてくれ」
「ああ、分かったよ。じゃ、またお汁粉屋に行ってるよ」
「いや、あそこじゃなくて」
「なんだよ。いつもあそこだったのに」
「まあ、とにかくお汁粉屋じゃなくて、どこかひっそりとしたところで・・・」
「お汁粉屋ほどひっそりしている所はないぞう。もう打ち上げは解散してしまったし」
「いや、そうじゃなくてあんたと二人きりで。うーん、じゃあ、崩落寺に戻っていてくれ。カウンターを交替したらすぐに追っかけるから・・・」
高泉は奇妙に感じながらも了解し、崩落寺へ戻った。
涼しさが寒さに変わりつつある境内。高泉は本堂板の間で、火鉢を起こして待った。
思惑通り、知事の名を後援会名簿に連ねた坂上部屋のお上さんが、お礼に、小ぶりの火鉢を一つ、斉藤少年に運び込ませたのである。部屋では、窓をアルミサッシに換えて以降、一酸化炭素中毒を恐れて火鉢を使わなくなっていた。隙間風がひどい崩落寺ならば、中毒の心配はない。来週には、さらに大ぶりの火鉢を親方が車で運んでくれるという。
三十分ほどして、星乃湯の主人は崩落寺に来た。
まだ蝋燭をつけるほど暗くはない板の間に、火鉢を挟んで、主人もあぐらをかいた。
「今回の運動に関係した連中には、秘密にしておいてくれよ」
「ああ、約束するけど、なんか悪いことでもしたのかい?」
「結果としては、いいことしたと思っている。うちだけじゃなくて、都内の銭湯全部に助成金が出ることになったのだから・・・。私だってちゃんと嬉しく思っているよ」
「分かった。それで?」
「それでね。ここからが言いにくいのだが・・・」
主人は火鉢の炭火を見つめながら、ぽつりぽつりと説明し出した。
「収支上の理由を前面に出して、みんなを巻き込んだが、実は、あれは一つの作戦だったんだ」
「えっ、作戦? ということは、廃材を燃やして手間賃を取るとか燃料代を節約しようとか言ってたの、嘘だったの?」
「嘘じゃない。どのみち収支を合わせるのには苦労してきた。もしあれが実現していれば、それなりに収支貢献したと思うよ。ただ、収支面での経営課題より、わたしの意欲面での課題があって・・・ それをどうにかしたかったのが本音なんだ」
「意欲面の課題?」
「そうだよ。ぎりぎりの事業をやってきた人間にしか理解できないだろうが。収支を合わせることができても、経営意欲が失せてしまったら、廃業を考えたくなるものさ」
「うーん、まあ、そうなんだろうけど。でも、旧式ボイラーの稼動が、経営意欲にどう関係してるの?」
この質問を受けて、主人は初めて真実を明かした。
旧式ボイラーは、星乃湯先代のお気に入りだった。高齢になって息子へ経営をバトンタッチした後も、旧式ボイラーだけは関わっていた。ともかくメンテナンスが面白くなるように設計されているボイラーである。
しかし、先代が気に入っていたのはメンテナンスの面白さだけではない。実は、廃材にせよ薪にせよ、木材がばちばちと燃えるのが気に入っていたらしい。言葉にしたことは一度もなかったが、蓋を開けるたび火に魅入る父親。成長に伴い徐々に銭湯運営を手伝い始める前から、幼な心で充分に理解していたことだ。決して楽な暮らしができるわけではない銭湯経営。火を自在に操り、火を自由に見ることが、先代の生き甲斐だったのである。
「放火魔と紙一重、だなんて、誰にも言って欲しくなかったからね」
「そうだね。分かるよ。なまじ心理学を勉強してる連中が、軽率に言い出しかねないからね。秘密は守るから安心してくれ」
事情が飲み込めてきた高泉は、冷静になった。
「でも、今では先代がいないのに、それでも燃やしたいと思うのは?・・・」
「先代があの世で喜んでくれると思えるからだよ。それにね・・・」
あの世を信じて言っているのか。それとも心情表現なのか。しみじみ言う主人へ確認するわけにもいかず、高泉は黙って聞いた。
「あの世で喜んでくれるのは、先代の他にもいてね。それは、犬ころなんだ」
たくさんの従業員が通り過ぎていったことは、すでに聞いていた。だが、犬を飼っていたことは、初めて知った。
主人は話を続けた。
「あれは、小学校に入る前の年だった。終戦の年の、年末でね。早朝、搬入口にりんご箱が置いてあるのを、お手伝いさんが見つけてね」
「お手伝いさん?」
「ああ、当時は給料どころか、食うだけでも大変だったから。正式な従業員ではなくとも募集すればすぐ集まったんだ」
「ふーん」
「箱を見つけたお手伝いさんは、すぐ報告した。おふくろが箱を開けてみると、ざぶとんに包まれて眠る子犬が入っていた」
「捨て犬かあ」
「ああ。だが、ただの捨て犬じゃない」
「え?」
「封筒も一緒に入っていてね。おふくろがさっそくのぞいてみると、一通の手紙と何枚ものお札が入っていた」
「お札?」
「手紙には、事情があって犬を飼えないこと。同封の金を餌代に。余った分は銭湯経営の寄付金に。そうした旨が、丁重な文で書いてあった」
「名前と住所は?」
「書いてなかった」
「小学生の前というと、五歳ぐらいかあ。記憶力いいんだねえ」
「いや。そのときに、わたしが手紙を見たわけじゃないから」
「伝え聞きかい?」
「いや。先代が手紙を捨てずに保管しておいたので、遺品を整理する時に読んだんだ。見つけた時には『これがあの時の手紙か・・・』と懐かしく思ったよ」
「先代、几帳面だったんだねえ」
「まあね。だが、大金が一緒だったから・・・。戦争末期に休業していた銭湯を再開したばかりで金に苦労しててね。さっそく使おうとしたものの、同時に、不審とも思った。大金を渡せるのに犬が飼えないというのが不審だとね。だから、餌代と寄付金ということが証明できるようにと、手紙を手金庫に保管しておいたんだ」
「それで犬を引き取ったのか・・・」
「ああ、先代は犬嫌いだったが、手紙同様、物的証拠として残したんだ」
「でも、なぜ、ボイラーを炊くと、あの世の犬まで喜ぶの?」
「犬が成犬になってのことだがな。近くで火を見つめるようになったんだよ」
「犬が? 動物は火を怖がると聞いたことあるけど・・・」
「先代も犬を飼った経験がないので、同じようなこと言ってたがな。けっこう大きな犬に育ったからデバガメや泥棒の防止になるだろうと、塀の内側で放し飼いしてたんだが、ボイラーの蓋を開けるたび駆け寄ってきては、火を見つめるようになった。木をくべるじゃまにならないよう、脇にちょんと座ってな」
「ふーん。自分のポジションを理解しているとは・・・ 頭が良さそうな犬だねえ。それなら、番犬として役に立ったんだろうなあ」
「ああ。塀の外側に人の気配を感じたら、必ず二三度吠えて、警告を発していたよ。ただ、一回だけ、侵入まで許した上、おとなしく頭をなでられていたことがあって。その時には、先代にこっぴどく殴られたっけなあ」
「え、あ、殴られたのはデバガメかい? 犬かい?」
「犬だよ。侵入者は、発見したお手伝いさんが叫び声をあげたもんで、彼女が応援を呼びに行っている間に、逃げてしまったらしい」
「ふーん。それにしても魚屋が言った通り、デバガメ、現実に起こりうるんだねえ」
「まあね。だが、その時の侵入者はデバガメじゃない。早朝だったからね。女湯も男湯も開いてない」
「じゃ、泥棒かね」
「たぶんね。実際、薪をやられたことが何度もあるから」
「薪泥棒かあ」
「当時は燃料として貴重だったからね」
「ふーん。ところで、その犬。名前はなかったの?」
「なかった」
「犬にはたいてい名前をつけるものかと思っていたが。ポチとかなんとか」
「先代が犬嫌いだったせいもあったが、誰もが忙しくて、犬に名前を付けたりしている余裕がなかったんだよ。だから皆、ただ『犬』と呼んでいた。子供の私までがね」
「そう。じゃあ、犬は、あまり好かれてなかったんだね」
「まあね。だが、ボイラーの蓋を開けるたび毎回と言っていいほど駆け寄ってくるから、先代も面白がるようになってね。しまいには『おい犬!』とか言って、いちいち呼びつけてから蓋を開けていたよ」
「そうかあ。なんか、違う方向へ行ってしまって残念だったね。役に立てず済まない」
「いや、そんなふうに思わないでくれ。助成金のおかげで、収支上はかえって楽になったんだから。ま、撤去するとなればかなり金が掛かるだろうし、木のボイラー、そのまま残しておくよ。そして、先代と犬のために、時々、こっそり火を焚いてやるさ。庭で刈った草が貯まった時にでもな」
「そうだね。じゃあ、その時には声かけてくれ。俺も、境内の草や、葉っぱや枝を貯めておくから。けっこうな量になるかもよ」
「ああ、その時は声かけるよ。リアカーも貸すさ」
「へえー、まだリアカーがあるんだあ」
「搬入口からボイラー室まで、薪や廃材を運ぶためにね。それこそ捨てるのに手間が掛かるから、そのまま隅っこに置いてあるんだ」
「じゃ、たくさん運搬できるな。寺の葉っぱや枝、ボイラーで燃やしても、きっといい香りだと思うよ。うちじゃあ、斉藤君が八百屋から持ってきてくれるサツマイモ、焚き火に放り込んでてね。その香りもよくて」
「そうかい。斉藤君も、食べ盛りだろうから。うちのボイラーの時にも、試してみるか。斉藤君も連れておいでよ」
「おう、きっと斉藤君も喜ぶさ。あ、なんだか、腹、減ってきた」
「そうだね。私もお腹がすいたよ。よければ、そば屋か中華屋に行ってから解散としないかい。こんどのお礼におごるから」
「ほんと? ありがとさん。あ、でも、魚屋と八時に寿司屋で約束しているんだ」
「それならまだ時間があるじゃない。そばぐらいなら大丈夫だよ」
「じゃあ、ざるそばでも頂くか」
「お、決まった」星乃湯の主人は立ち上がった。
「あ、悪いけど、一足先に行ってくれ。火鉢を始末して、追っかけるから。ついでに風呂道具も持って出たいし」
「わかった。私も、フロントに一声かけてから向かうよ。じゃ、蕎麦屋でな」
星乃湯が去った。高泉はあぐらをかいたまま赤い炭をしばらくみつめ、灰をかけた。
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